この物語は事実に基づいておりますが、一部脚色してます。(著者:伊藤寛康)

(1)

 チェベレのメンバーの中で、一番最初に出会ったのはボーカルの岩村健二郎だった。今から30年以上も前のことだ。 小学校3年の時に武蔵野市からとなりの三鷹市に転校してきた僕は、3年生の3学期だけを市内のI小学校で過ごすことになった。その時にとなりのクラスに、やたら背の高いひょろっとした「もやっし子」のようなやつがいてひときわ目立っていた。それが岩村だった。しかし、その頃はおたがい会話も交わしたことはなく、知り合う間もなく僕はまた転校してしまった。
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 つぎに彼と再会したのは、それから4年後のことである。2人は偶然にも同じ中学校に進み、そして同じクラスになった。4年後の彼はさらに背が伸びていて、とても同い年とは思えない成長ぶりをみせていたが、まだ声変わりはしていなかった。(今でも毎年背が伸びているらしい。)
 
中学では岩村はテニス部、僕はサッカー部で、今の姿からは想像もできないスポーツ少年だったが、同時に僕はクラスメイトのT君の影響でフォークギターを始めていた。お年玉をはたいて初めて買ったギターが、その当時アリスが宣伝していたモーリスギターだった。当時の値段で2万円くらいだったと思うが、そのころアリスの大ファンだった僕は、「モーリス持てばスーパースターも夢じゃない!」という宣伝文句にすっかりだまされてその時持っていた全財産をつぎこんで購入したのだった。
 たぶんにもれず、Fのコードを押さえられるようになるまでには結構苦労したが、「アリスのメンバーになるんだ!」という強い意志を持っていた僕は、FそしてBmと次々に難しいコードを克服していった。

 そのころ岩村はYMOとかサザンとかを聴いているごく普通の少年だった。僕もまた、この世の中にサルサなんていう音楽があることなどまったく知らず、ましてや自分が演奏し、あげくの果てには、世界中を演奏してまわることになろうとは、夢にも思っていない若干15歳の少年だった。ラテンの「ラ」の字も知らなかった僕が、ラテンのリズムの心地よさに触れるまでには、そんなに長い時間はかからなかった。
 それはある事件がきっかけだった。
中学2年生のある日、一緒にアリスのコピーバンドをやっていたクラスメイトのT君が突然「これからはエレキだぜぇ!」とか言いながら、エレキギターを買ってきたのだ。エレキギターなど野蛮なものと思っていた僕は、「おまえ、フォークをやめるのか!」と必死で説得したが、すでに彼の気持ちは完全にロックになっていた。そして彼は、ロックバンド結成へと着々と準備をはじめていたのだった。
 この些細な(僕にとっては衝撃的な)事件が、その後のチェベレの、そして大袈裟な言い方をすれば、日本のサルサ界の運命を決定づける重要なきっかけになるとは、その当時の僕には知る由もなかった。(つづく)

 

(2)  

 T君は持ち前の行動力で、あっと言う間にどこからかドラマーのY君とボーカルのF君を見つけてきた。彼の頭の中では、僕はベースをやることになっていたらしく(僕の意志とは関係なく)これもまたどこからか黒のジャズベースを持ってきて(かっぱらったのか?)僕に手渡したのであった。それまでベースなど持ったこともない僕に「ギターより2本弦が少ないから簡単だ」と言い放ち、おまけにカセットテープにディープパープルやらレッドツェッペリンやらをたっぷり録音してきて「来週までに出来るように練習しといて」というセリフとベースを残して去っていってしまった。
 
途方にくれながらも、とにかく出来るようにしなくてはという責任感だけで、その日から1週間、毎日とりつかれたように練習をした。しかし練習と言っても音楽的知識など、ほとんど持ち合わせていなかったので、ただひたすら曲を聴いて、押さえる指の位置を覚えていくという体育会系の練習だった。なんとか4曲くらいおぼえて、ついに初リハーサルの日を迎えた。そして悲劇は起こった。
 
自信を持っておぼえていった全ての曲が、ギターと半音ずれていたのだ。彼の家のカセットデッキと、うちのラジカセのテープスピードが合っていなかったのだ。当然のことながら、どちらのデッキが正確かという論議になりかけたが、T君は伝家の宝刀「ヤングギター」の4月号を取り出し、「ほら、この曲のキーはAmだろ」といってあっと言う間に議論を終わらせてしまった。だいたいそんな本があるなら最初から言えっつうの!
 
今考えればG#mなんてキーはめったにないのだが、そもそもキーなんていう概念はまったく持ち合わせていなかったのだから仕方がない。敗北感にうちひしがれながら、とにかくその日は、せっかくおぼえた指の位置を、一つずつづらしておぼえ直すと言う作業ですべて終わってしまった。曲にはキーというものが存在するということを、初めて知った貴重な1日だった。数々の不安を抱えながらも、人生初のロックバンド「スピードロック」(T君命名) はこうしてスタートした。中学3年の春である。(つづく)

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(3)

 バンドの練習は、日曜日に近くの公民館の音楽室を借りて朝から晩までやっていた。「ロックバンド」は音楽室を貸してもらえなかったので、「アリスのコピーバンド」という名目で借りていた。時々係員が偵察に来たが、彼には「ロック」と「アリス」の違いが分からなかったらしく、一度も注意されたことは無かった。
 
3ヶ月くらいたつと次第に「ロック」のビートにも慣れ、むしろ「かっこいい」と思うようになっていた。僕はいつの間にか、ロックの世界にはまりつつあった。そして僕の中に「ロック魂」が芽生えようとしていた中学3年の夏、またしても衝撃的な事件が起こった。リーダーのT君は突然こう宣言した。「ロックはもうやめよう!」  僕をはじめとして、メンバー全員の目が点になり、二の句をつげない状態になっていることも気にせず、T君は「これから俺たちがやるのはこれだ!」と言いながら、おもむろにカセットテープをかけ始めた。そこから流れてきた音楽は、それまで僕が一度も聴いたことがないサウンドだった。それは今で言う「フュージョン」その当時は「クロスオーバー」と呼ばれていたもので、「カシオペア」「高中正義」などであった。
 
「いつ歌が始まるの?」というのが僕の第一印象だった。いつまでたってもギターがメロディーを奏でていて、いっこうに歌が出てこない。そう、ここにT君の思惑があったのだ。つまりロックよりもギターが目立つ音楽、それがフュージョンだった。その日をもって、ボーカルのF君は、サイドギターという名誉ある地位に就いたのであった。
 
やはり今回も前回と同様に、「この曲来週までに出来るようにしておいてね」というT君の有り難いお言葉があり、その日の夜から連日の猛練習が始まった。ただ前回と違ったのはT君が譜面を用意していたことだった。この時初めてベースの譜面と言うものにお目にかかったのだが、読み方がよく分からず、自称「昔はギターでブイブイ言わせた」という親父に「この譜面のどこがドの音?」と聴いてみた。するといとも簡単に答えるではないか。さすがだなあと感心したものだが、その数分後にはそれが知ったか振りだったことが判明した。やはり、頼れるのは自分だけだということを、あらためて実感しつつまた地道な練習をくり返した。
 
不思議な事に何度もテープを聴いているうちに、いつの間にかその音楽に完全に引き込まれていた。自分でも、なんでこんなに素直に身体に入ってくるのかよく分からなかったが、よくよく分析してみると、あるリズムと音色に以上に気持ちよさを感じていた。その当時の高中正義のサウンドはラテンパーカッションをふんだんに使ったラテンフュージョンを基調としていて、いままで見たことも聴いたこともない、コンガやティンバレスが弾きだす強烈なラテンビートにものすごい快感をおぼえていた。
 
その当時、高中のバンドでパーカションをたたいていたのが、デルソルの木村(キムチ)氏であった。この高中のサウンドとの出会いが、この後の僕達の運命を決定づけるきっかけとなるのだが、この時の僕には知る由もなかった。そしてこの後わがバンド(フュージョンバンドなのに何故か「スピードロック」)に思いもよらない結末がやってくるのであった。 (つづく)

 

(4)

 中学3年の秋になり、バンドのほうも順調に進んでいた。しかし、どうしても避けられない大イベント、高校受験が迫りつつあった。僕たちにとって、高校を選ぶ基準はその高校に「軽音楽部」があるかどうか、ということだけっだった。そして、僕たちの学区内では唯一、K高だけに軽音楽部があった。そして、さらに悪いことにその高校は学区内で一番、偏差値の高い学校だった。
 
もちろんバンドのメンバーはそのK高を第一志望にしていた。学校で公然とバンドができるなどということは、夢のような話だった。そして、ついに受験の日をむかえてしまった。比較的勉強のできたT君以外のメンバーは、ほとんど神頼みと言ってよかった。
 
そして発表の日。運命は無惨にも全員を引き離してしまった。T君以外はみんな落ちたのだった。ぼくは第二希望のM高へ、他のメンバーもそれぞれ収まるところに収まった。よくよく考えてみれば、ほとんど勉強をしていなかったのだから、落ちて当然といえば当然なのだが、さすがに中学生にはショックだった。なによりも、バンドが終わってしまうことが一番悲しかった。「高校行ってもバンドを続けよう」と言ったものの、就職したやつもいて、物理的に不可能だった。入学早々、T君から「軽音楽部でバンドを組んだ」と言う連絡があった。ついに、一人になった。しかし、運命の扉は少しづつ開き始めていたのでる。
 
我がM高の入学式は4月8日だった。その日から僕は新たにバンドを作るべく、メンバーを探し始めた。同じ中学から来た友達などにも協力してもらい、自己紹介の時に「楽器やってます」という人をチェックしてもらったりした。
 
入学式の翌日、廊下で一人の男が僕に声をかけてきた。第一声は「ねえ、きみがベーシスト君?」だった。「バンドのメンバー探してるらしいねえ。一緒にやらない?僕はこう言う楽器やってるんだけど」と言って、パンフレットを僕に見せた。そのパンフレットはパーカッション総合カタログだった。「このコンガってやつやってるんだけど、高中正義のコピーやるんなら、ちょうどいいと思うよ。それからサンタナね、あれもやろう!かっこいいよ」と勝手にどんどん話を進めていくのであった。
 
その男の名は佐藤英樹。そう、これが彼との最初の出会いである。そして、2人で手分けしてメンバーを探すことにした。そして3日後にはドラム、ギター、キーボードとほとんどのパートは見つかっていた。ここに、新たなバンド「アイランズ」が産声をあげた。実に入学から4日後の4月12日のことだった。そして、もう一人。たまたま佐藤英樹の隣の席になってしまったと言うだけで、その後の人生が大きく変わってしまった男がいた。もちろんその男も、のちにチェベレのメンバーとなる運命に導かれていたことは、疑いようもない。(つづく)

 

(5)  

 とりあえず、バンドとしては十分すぎるほどの人数が揃ったので、早速リハーサルの準備に取りかかることにした。毎時間、授業が終わるたびに一つの教室に集まり、どんな曲をやろうか、などと盛り上がっていた。僕とギターのO君は、高中正義の曲が好きだったのでそれをやろと提案した。佐藤英樹は最初の出会いから一貫してサンタナ派だったので、とりあえず両方をコピーすることにした。
 
当時高校生だった僕たちにとっては、とにかく原曲を忠実にコピーすることが最大の課題だった。自分たちなりにアレンジするなどと言うテクニックは、全くなかったのである。曲を忠実にコピーすると言うことは、楽器の編成も忠実に揃えなければいけないと言うことを意味した。当時の高中やサンタナのバンドの編成はどちらも、ギター、ベース、ドラム、キーボードが2人、そしてパーカッションが2人と言う共通した編成だった。我々のバンドにはパーカッションが約1名足りなかった。
 
しかし、高校生でパーカッションをやるやつがはたしているのだろうか?こたえはNOであった。佐藤英樹が、高校生にしてすでにコンガをやっていた、と言う事すらほとんど奇跡に近いのに、さらにもう一人探すなどと言うことは、ほとんど不可能に近い事だった。そこで僕たちは考えた。「だれかをパーカッショニストに育て上げればいい」これが僕らの出した結論だった。
 
そんな話をした2日後、佐藤英樹が早速情報を持ってきた。「俺の隣の席に座ってるやつがパーカッションに興味をしめしている」と言うのだ。さっそく休み時間に英樹の教室を訪れることにした。教室に入ると、英樹の隣の席に座っている人の良さそうな、色黒の青年が、無理矢理ウォークマンのヘッドホンを耳につっこまれて、大音量で「サンタナ」を聴かされている真っ最中だった。彼が1曲聴き終わるや否や英樹が口を開いた。「ね、かっこいいでしょ!?サンタナ。どう?特にこのパーカッションの迫力、しびれるよね!?やってみたいでしょ!パーカッション!」
 
どう見ても僕には「無理矢理」としか思えなかったが、どうしてもパーカッションが必要だったので、あえてそこの所には目をつぶった。「それじゃぁ、パーカッションやってくれるの?」と聞くと彼は「は、はい」とうなずいた。しかしその時の彼の目には、明らかに困惑と恐怖の色が見えたのを僕は見逃さなかった。
  彼の名は美座良彦、これが彼との最初の出会いだった。チェベレのメンバーとしては、岩村、英樹についで3人目となる。こうして、メンバーが揃った「アイランズ」は翌週から本格的なリハーサルに突入するのであった。 (つづく)

 

(6)  

 ようやくメンバーも揃い、翌週の日曜日に初めてメンバー7人全員で集まってリハーサルをやることになった。このころには公民館の職員とも顔なじみになっていたので、いちいち内容をチェックされるようなことは無くなっていたが、念のため申し込み用紙には、常に「アリスのコピーバンド」と書いておいた。
photo3初回の練習は、とりあえず顔合わせと言うことで2曲ほど軽く合わせてみて、あとは今後のバンドの進め方などを話し合うことにした。その席で誰かが「メンバーは揃ったけど美座君は楽器を持ってないわけだから、ちゃんとした練習にならないんじゃないかなあ」と言った。確かに楽器がなければただの見物人と同じである。今では町のちょっとした楽器屋でも、結構コンガやティンバレスを見かけるが、その当時(25年前)はパーカッション、特にティンバレスと言う楽器は、そこら辺の楽器屋で簡単に手に入る様な品物ではなかった。もちろん値段もかなりのものだ。
 
無い知恵を振り絞って考えてみてもどうにもならず、最終的な結論は誰もが予想したとおり、「美座がなんとかして買ってくる」だった。美座は無理矢理バンドに引きずり込まれたあげくに、つい3日前までその存在すら知らなかったティンバレスを買う羽目になった。しかも来週の練習までにという期限付きで...。
 
みんなの期待を一心に背負った美座は、親に泣きつき借金をしてティンバレスを購入した。親にしてみれば、ギターやドラムならともかく、いきなりティンバレスなどという訳の分からない楽器を買って来られて、さぞ驚いたことだろう。しかも美座は、新しい楽器を手にした嬉しさからか、初めてみる楽器への興味からか、こともあろうに家の中でティンバレスをバカスカ叩いてしまったのである。ちょうどそこに親父が仕事から帰ってきたからたまらない。「バカヤロウ!うるせぇんだよぉ!そんなもん買ってきやがって!」と言うが早いか、強烈なパンチが美座の顔面をとらえた。殴られたのである。災難としか言いようがない。しかし僕たちにしてみれば、楽器さえ揃えばよかったので、あえてその事については、触れないことにした。美座の苦難のティンバレス人生はこうして始まったのである。
 
僕たちの当面の目標は11月の文化祭だった。とにかく人前で演奏する絶好のチャンスだったので、やたらと張り切って練習したのをおぼえている。夏休みはほとんど毎日休まずにリハーサルをやっていた。夏休みが終わるとその年の文化祭に参加希望するバンドが一同に集まって、出演順番を決める話し合いがあった。話し合いと言っても、実際には3年生の中で一番力のあるバンド(技術力ではない)から順番に好きなところを取るのである。つまり1年生は希望を出すまでもなく、与えられた時間帯、つまり最後に残った最悪の時間帯を、だまって受け入れるのが毎年の慣例になっていた。しかし、その年の文化祭はいつもとは違っていた....。(つづく)

 

(7)

 文化祭実行委員が「それでは、各バンドの出演希望日と時間を言って下さい」と形式的に言うと、最も怖そうな態度のでかい3年生バンドから順番に希望を言い始めた。「日曜日の午後1時」と、そのバンドのリーダー(教室の中なのになぜかグラサンをかけている)が言った。とにかく一番人が多く集まる時間帯である。同じ時間帯で希望者が重なった場合は話し合い、もしくは抽選となるのだが、暗黙のうちに力関係が決まっていたので、申し合わせたかのように順番に決まっていった。
 
そして最後に、唯一の1年生バンドである我々に順番が回ってきた。残っている時間帯は、当然観客が最も少ない土曜日の午前中の一番最初だけであった。誰もが、これで全ての出演順が決まったと思っていたその瞬間、僕は「日曜日の午後1時を希望します」と言った。教室の中が一瞬静まり返り、張りつめた空気が流れた。その直後、3年生の脅しともとれる鋭い視線と、怒濤のような罵声が一斉に僕たちに向けられた。僕らメンバー7人はおもむろに席を立ち、同じ時間を希望している3年のバンドの所に行き、「それじゃぁ、オーディションをやって、勝った方がこの時間帯にやると言うことにしませんか?」と言ってのけた。相手は4人こっちは7人、しかも佐藤英樹はパンチパーマにくちヒゲ、美座良彦は顔黒で国籍不明、ギターのO君は身長180センチ体重45キロ、色白でどこから見ても病気持ち、という訳の分からない集団を目の前に、相手はひるんでいた。「わ、分かった。オーディションにしよう」
 
3日後、数人の先生と実行委員を審査員としてオーディションが行われるはずだったが、突如相手のバンドが出場を辞退した。表向きの理由は「大学受験に備えるため」だったが、今更どうあがいても大学は無理そうに思われたので、きっと自信がなかったのだろうと勝手に想像した。いずれにしても、文化祭史上初めて1年のバンドがベストポジションで演奏する事になった。
 
その年の文化祭はかつて無いほどの盛り上がりを見せた。完全に話題が先行していて、誰も僕たちのバンドの内容など知らないのに、すでに学校中の噂になっていた。文化祭当日は、生徒と外部の客あわせて5〜600人が体育館に押し寄せ、大盛り上がりのうちにステージは終了した。
 
そんな熱狂する生徒の中に、一人黙って我々の演奏に熱い視線をそそぎ込んでいる男がいた。彼はつい1ヶ月前に転校してきたばかりだったが、この日を境に彼の中のラテン魂が目覚めてしまったのだった。そして彼もまた、チェベレへの道を歩んで行くことになるのである。( つづく)

 

(8)

 翌日彼は、僕の教室を訪ねてきてこう言った。「あのぉ〜僕、星名と言うものですけどぉ、昨日のステージ感動しましたぁ。それでぇ、僕もバンドに入れてもらいたいんですぅ..」がっしりとした体格からは想像もできない、なよなよした話し方だった。
 
とりあえずバンドのメンバーを集め緊急会議を開いた。「楽器は何をやるの?」と聞くと「何にもできないんですぅ。でもパーカッションとかやってみたいんですぅ」と言う答えが返ってきた。いろいろ考えて、「じゃあとりあえず、タンバリンとかギロとか練習してみれば」と言うことで、一応メンバーに加える事になった。おそらく2〜3日であきらめるだろうと思っていたので「正式にメンバーに加えるかどうかは、1ヶ月くらいやってみてから決めるから、そのつもりでいてね」と言っておいた。
 
翌日登校すると、どうもいつもと違う慌ただしい空気が校内に流れていた。ある教室の前に人だかりが出来ていた。何だこの騒ぎは?と思いながら教室に近づいて行くと、僕の姿を見つけた佐藤英樹が駆け寄ってきた。「いとぶー、たっ、大変だ!ほっ、ほっ、星名があ!」
 
人だかりは星名のいる教室だった。人混みをかき分け教室に入った僕は、すぐに星名の姿を見つけた。そして自分の見た光景に思わず目を疑った。昨日まで七三分けだった彼の髪の毛が、なぜかアフロヘアーになっていた。そして美座が星名の後ろに立って「もう少しボリュームがほしいなあ」とか言いながら、アフロコームで一生懸命に星名の頭を「巨大化」させていた。
 
「一体どうしたの、その頭は?」と聞くと、「ラテンをやるには、やっぱりアフロかと思ってぇ....」とにこにこして言った。僕はおもむろに彼の手を取りこう言った「素晴らしい心意気だ。今日から君を正式メンバーとしてバンドに迎えよう!」
 
こうして、星名が加わりメンバーは8人になった。その後は自主コンサートやライブなどをやりまくり、血気盛んな高校生活は順調に過ぎていったのである。ついでに言うと自主コンサートの時には必ず照明係りとして岩村に手伝ってもらっていた。彼はスタッフとして「アイランズ」に関わっていたのである。

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そして、高校2年が終わろうとしていた3学期、期末試験の真っ最中にそれは起きた。その後の人生を決める「運命の日」が訪れたのである。(つづく)

 

(9)

 期末試験の2日目、英語と基礎解析の試験が終わり、僕は帰りの準備をしていた。すると、教室に英樹と美座がやってきた。「いとぶー、これ見てよ」と言いながら、英樹は手に持っていた「ぴあ」を差し出さした。「このバンドなんだと思う?」と言いながら、ライブのスケジュールが載っている所を指さした。そこを見ると「オルケスタ.デル.ソル」という聞いたこともない変な名前のバンドが載っていた。メンバーを見ると、高橋ゲタ夫、木村キムチ、森村献、ペッカーなど、聞き覚えのある名前が並んでいた。
 バンドを初めてから2年足らずだったが、高中正義や松岡直也などをコピーしていたので、彼らの名前は知らず知らずのうちに頭に入っていた。「どうやらラテン系のバンドらしいなあ」「でもドラムがいないと言うのはめずらしいなあ」などと、ひとしきり盛り上がってから「見に行ってみよう!」と誰かが言った。僕が「ところでそのライブはいつあるの?」と聞くと、英樹がもう一度「ぴあ」を見てから言った。「2月8日だって」少し考えてから僕は言った「それって今日じゃん!」
 明日は最大の難関である「代数幾何」の試験である。家に帰って試験勉強するか、あきらめてライブに行くか、 究極の選択を突きつけられて高校生の心は揺れた。さんざん迷ったあげくに僕と英樹、美座、星名の4人がライブを見に行くことにした。家に帰っている時間が無かったので、制服のまま学校から直接電車に乗って、会場である日本青年館へと向かった。千駄ヶ谷の駅を降りて、会場に向かって歩いている時に誰かが言った 「ところで、今日のコンサートって当日券あるのかなあ?」
 そういえば、そんなことは何も考えずに行動していたので、ちょっと不安になった。結構急いだつもりだったが会場に到着したのは開演時間の15分前だった。急いで受付を探して、そこにいたおばちゃんに向かって言った。「すみません、当日券ありますか?」
 するとおばちゃんは自慢げに「当日券?いっぱいあるよぉ。いちばん前がいいかね?」と言った。さすがにいちばん前は恥ずかしいので、前から3列目を購入して会場の中に入った。そして隠し録り用のレコーディングウォークマンのセットも完了して、後は開演を待つだけとなった。開演予定時間を10分ぐらい過ぎたときに、開演を知らせるブザーが鳴り、まだ薄暗いステージに、上下まっ白のスーツをまとったメンバーが次々に現れた。そして全員が定位置に着いたその時、「ワーン、ツー、ア、ア、ア、ア、」と言う森村献の高らかなカウントが 響きわたった。(つづく)

 

(10)  

 静寂を破りパーカッション、ブラスセクション、ピアノ、ベースの音が怒濤のように押し寄せてきた。とにかく 何がなんだか理解出来ない。自分たちがこれまで経験してきたあらゆる出来事を思い返してみても、今現実に目の前で起こっている光景を、冷静に判断するだけのデータが頭の中には存在しなかったのだ。僕らの想像、知識を遙かに越えたサウンドが、舞台の上から洪水の様に僕らめがけて押し寄せてくるのであった。
 あまりの衝撃の強さに僕たちは全員笑い出した。人間極限に追い込まれると思わず笑い出すと言うが、まさにその状態だった。建物を解体する1トンの鉄の玉で頭を殴られたような衝撃(経験がないのでどれほどの衝撃かはわからないが)だった。そう、その音楽こそ「サルサ」だったのである。
 あっという間に1時間あまりのステージは過ぎていった。そしてステージが終わる頃には「サルサ」と言う言葉とそのサウンドが、まるで脳みそに直接烙印を押したかの様にくっきりと、僕たちの記憶中枢に深く刻み込まれていた。
 やがてライブが終わり僕たちは興奮状態のまま外に出た。外はいつの間にか小雪がちらついていた。しかし身体の芯まで熱くなっていた僕らにとって、雪も寒さも全く気にならなかった。興奮を抑えきれない僕たちは、それぞれ思い思いの方法でその興奮を表現していた。奇声をあげる奴もいれば、道路でいきなり逆立ちする奴もいた。
 帰りの電車の中では、誰かが「凄かったなぁ」と言えば誰かが「いやぁホントに凄かったよぉ」というだけの会話がほぼ30秒おきに繰り返され、家の最寄り駅に着くまでの40分間、それ以外の会話はほとんど交わされなかった。たった今経験した、17才の少年にとってあまりに刺激的な映像と音が電車の揺れに歩調をあわせるかのように、頭のなかを行ったり来たりしていた。吊革にもたれながらぼんやりと電車の天井を見上げていると、目的の駅に到着した旨のアナウンスが流れた。
 ちょうど英樹と僕は同じ駅だったので、2人は電車を降りた。改札を出るとそれぞれ別々の方向に歩き出した。帰りの道筋、今日起きた出来事を一つ一つ思い返しながら、夢うつつの気分に浸っていた。そして心の中でつぶやいた。「あんなバンドやりたいなぁ」そう言った瞬間、自分の中の何かがはっきりと変化するのを感じた。そうか、ついに出会ってしまったんだ。これは運命なんだ.....。(つづく)

 

(11)

 それからというもの、僕たちは徹底的に「サルサ」や「ラテン」に関する情報を集めまくった。FMの番組、中古レコード屋、ライブハウスなど、おおよそ「サルサ」や「ラテン」と言う文字を発見すれば、必ずチェックし出かけて行った。
 高校生の実力ではとうていサルサなど演奏できるはずもなかったが、いつかサルサバンドをやりたいという夢を抱き、ただひたすらレコードを聴きまくり、ライブを見まくった。高校生の少ない「こづかい」は、レコードとライブに全てつぎ込まれていた。特にライブはデルソルが月2回、その他ラテンジャズ系のセッション(その頃はコンフントミチアキーノ、津垣博通アフロキューバンファンタジー、ルンバママなど、今では伝説になっているバンドが数々活躍していた)などを合わせるとほとんど週に1、2回のペースで通っていた。なるべくお金を使わないように、ライブハウスに入る前に自動販売機で飲み物を買って、カバンの中に隠して持ち込んだ。店員の見ていない隙に、最初に頼んだドリンクのグラスに缶ジュースを少しづつ足しながら、2時間あまりのステージを乗り切った。まわりの会社員達が次々に注文する「パスタ」や「フライドチキン」を横目に見ながら、食べ盛りの僕たちは、空腹の胃をサルサの迫力で満たすのであった。
 その頃の僕は、クロコダイルで「オムライス」を注文するのが夢だった。ライブハウスで食事をしながらライブ
を見るなんて、なんて贅沢な事だろうと思っていた。そんな大人の世界に憧れながらも、高校生の身分でライブハウスに出入りしていることで、ちょっと大人の世界に仲間入りしたような優越感も感じていた。
 ライブにはほとんど学校から直接行っていたので、制服のブレザーを着たまま、教科書の入ったカバンを持っていた。おそらく相当目立つ存在だったに違いない。当時のデルソルのメンバー間でも「制服で登場する高校生達」が話題に上っていたらしい。何回もライブハウスに通っているうちに、次第に制服を着ていることすら忘れてしまい、ある時美座が、ライブハウスの入り口で「ドリンクは何にしますか?」と聞かれ、ついつい「熱燗」と答えてしまい、店員に「お前高校生だろ!」と怒られる事もあった。
 バンドでは相変わらす「サンタナ」や「松岡直也」をコピーして、自主コンサートなどを続けていた。そして僕たちはいよいよ高校生活最後の1年を迎えていた。1年後に控えた「大学受験」目指して、学年中が殺気立っていた。そんな中でも僕たちは、相変わらずバンドを続け、11月の文化祭に向けて、のんきにリハーサルを繰り返していた。その当時、生活指導の教師が僕と顔を合わせるたびに「お前いつまでそんなことやってんだ!お前みたいな奴は絶対に大学には受からない事をオレが100%保証してやる」と言っていたのを、今でもはっきりと覚えている。

photo5  高校生活最後の文化祭は、完全に僕らの独壇場だった。なにしろ僕が文化祭実行委員長で、しかも生徒会長をゲストボーカルとしてバンドに迎えていたので、すべての事は僕たち中心に進んだ。それこそ、出演順からステージの予算の割り振りまで、全部こちらの都合で決めた。言ってみれば学校の予算で自分たちのバンドの自主コンサートを開催したようなものだ。とにかく夢の様な、そして波乱に満ちた高校生活はあっと言う間に過ぎ去り、高校生活最後のイベント「大学受験」は目前に迫っていた。(つづく)

 

(12)

 「アイランズ」のメンバーはそれぞれ大学や専門学校を受験し、とにかく発表の日を迎えてしまった。そもそも 都立校から現役で大学に行こうなどというのは、ほとんど考えられないことだった。そのころ通っていた古文の塾の講師が面白いことを言っていた。「一浪当然、二浪平然、三浪唖然!」
 過程はともかくとして結果だけを言うと、僕と佐藤英樹は私立大学に合格、美座は電子系の専門学校に合格、星名はプロレスをやると言いだして「UWF」に入門。そして他のメンバーは全員「浪人」と言うことになった。
 この結果「アイランズ」は、めでたく解散となった。(ちなみに、この時違う高校に通っていた岩村も浪人を決めていた)
 まさか浪人中にバンドをやるようなアホはいないので、当然の事ながらバンドは続けられなくなり、 レスラーになってしまった星名を除いて僕と英樹、美座の3人は、今後の音楽活動をどうするかという重大問題に直面していた。それぞれが大学、専門学校に入学してまもなく、高校時代の友人からある情報が届いた。 「知り合いのサックス奏者がバンドのメンバーを探していて、しかもラテンフュージョン系のバンドをやりたがっている」と言うのだ。とにかくそのサックス奏者と会ってみることにした。確か渋谷の道元坂にあるヤマハで待ち合わせたと記憶している。
 彼の名前は大堰邦郎。実際には彼の方が年上だが、パンチパーマに首からサンバホイッスルをつり下げている佐藤英樹を見て相当ビビッたらしく、彼は終始僕たちに敬語を使っていた。この出会いから実に17年後、彼はチェベレのメンバーとなるのである。
 とにかく僕たちは最初の出会いから盛り上がり、その日のうちに居酒屋で、これから始まるバンドについて朝まで議論しあった。その席で決まった事は、完全オリジナルのラテンフュージョンバンドにすると言うことだった。その時点でサックス、ベース、パーカッション2人、そして大堰氏がギターを連れて来ていたので、メンバーは5人揃っていた。そして希望のバンドの形にするためにはキーボードとドラムを探す必要があった。
 美座が口を開いた。「この間、学校のビッグバンドのサークルを見学に行ったとき、センスのいい1年生のドラマーが練習してたんよ。ラテンぽいパターンも出来てたし、いいかもよ。彼に声をかけてみようか?」
 その翌週、さっそくそのドラマーと会うことになった。彼の名は鈴木義郎。そう、あのオルケスタ.デ.ラ.ルスの
ティンバレス奏者(現在はボンゴ)で、いまではNORAの旦那にまでなってしまった人物である。たまたま美座と同じ専門学校に行ったと言うだけで、その後の人生が大きく変わってしまった人物である。もちろん彼はチェベレのメンバーでは無いが、ちょっとした状況の違いではチェベレのメンバーになっていた可能性は十分にある人物である。
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  近い将来自、分たちを待ち受けている様々な出来事など知る由もなく、僕らは新たなラテンフュージョンバンド「マンハッタン クラブ」を結成した。若干18才の春だった。 グルーポチェベレが産声をあげるまであと2年である。(つづく)

 

(13)

 新しいバンド「マンハッタンクラブ」は週に2回のリハーサルをこなし、着々と実力をつけていった。僕は大学バイト、バンド以外の事には一切目もくれずに、ただひたすら「マンハッタンクラブ」に没頭していた。しかしこのバンド、結成当初から重大な問題を抱えていた。大堰邦郎氏と共にリーダー的存在だったギターのK氏が、とてつもなく自分勝手な奴で、しかもとってもギターが下手だった。その上さらに悪いことに自分はとってもギターが上手いと思っているからどうにもならない。なにしろ最初に会った時の第一声が「君たち、このバンドは完全にプロ指向だから、本気でやる気があるのならすぐに大学を辞めろ」だった。プロ指向って意味わかんねぇんだよ!
 とんでもないバンドに入ってしまったなあと思いながら、とにかく最初のリハーサルを迎え、実際に音を出した瞬間、僕は心の中でつぶやいた「俺達が大学を辞めるよりお前がギターを辞めた方が100倍バンドのためだ、このアホ!」
 バンドが始まって半年もたたないうちに問題は表面化した。「K氏がギターをやっているかぎりバンドはこれ以上良くならない」と言う結論に達した。しかしバンドの中心的人物であり、しかも年上のK氏に面と向かって辞めろとは言えない。
 そんなとき大堰氏が名案を思いついた。「一旦バンドを解散して、また新しいメンバーで組み直せばいいんじゃないの?」
 素晴らしい方法である。実はこの時おぼえたこの方法は、のちのチェベレ結成時に大いに役立つ事になる。夏も
終わろうとしていたあるリハーサルの時に、大堰氏が言った「バンドの方向性が煮詰まったので、しばらく充電期間を設けたい。したがって一時バンドを解散する」
 その翌週、4日間の「充電期間」を経て新生「マンハッタンクラブ」は動きだした。新しいギターには僕の中学時代の親友だったT君を起用した。中学時代一緒にアリスのコピーバンドをやっていたT君とは3年ぶりのバンド活動だった。そもそも彼はギターが上手かったので、彼の加入によりバンドの実力は飛躍的に伸びた。
 某ヤマハ主催のコンテストなどにも出場し、本選会まで勝ち抜くなど、自分たちは勝手に「イケてる」と思い込んでいた。もちろん本選会では箸にも棒にも引っかからなかったが...。
photo7その後、大学2年いっぱいは毎月ライブをやりながら充実したバンド活動は続いたのであった。そして大学3年になるとき、またしても劇的に状況が変化した。佐藤英樹が大学の交換留学生の試験に合格して1年間メキシコに行くことになった。そこで「マンハッタンクラブ」は本当に一時お休みする事になった。その後「マンハッタンクラブ」が再び復活する事は無かったが、この出来事がチェベレ結成への大きな足がかりとなったことは事実である。
 19才の夏、状況は急激に変わりつつあった。チェベレ結成まであと1年である。(つづく)

 

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 佐藤英樹がメキシコに行くことになる半年ほど前、かれはジャズライフのメンバー募集広告で、あるとんでもない一行を見つけた。そこには「一緒にサルサやるメンバー募集します」と書かれてあった。彼は僕らには内緒で、密かにその人物とコンタクトをとっていた。その人は当時、会社員で博多出身のティンバレス奏者のYと名乗る人物だった。
 英樹がY氏と最初に会ったときには、まだほとんどのパートは揃っていなかった。サルサバンドはただでさえ人数が必要なので、そんなに簡単にはメンバーは集まらないのは当たり前である。その場にいたのはY氏と英樹ともう一人、これもまたジャズライフの募集広告を見てやってきたコンガ奏者の3人だった。
 そのコンガ奏者の名前は福本雅之、そうペペ福本である。チェベレのメンバーとしては、岩村、英樹、美座、星名、大堰に続いて6人目の人物の登場である。実際に僕が彼と対面するのはそれから約半年先になる。
 話を英樹とペペの出会いの場面に戻そう。もちろん最初から福本氏本人が「ぺぺ」などという、まるでメキシコの動物園のパンダの様な芸名を名乗っていたわけではない。初対面の当日、英樹は当時カーリーヘアーだった福本氏を見るなり「なんかそのヘアースタイル、ラテンと言うかメキシコと言うか、何と言うか<ペペ>って感じですよね」と、なんの根拠も無いままに強引にイメージを押しつけてしまった。本人の意思とは関係なく「ペペさん、ペペさん」と繰り返し呼ぶようになり、その後今日に至るまで20年間「ペペ」の愛称で呼ばれることになった。
 とにかく3人ではサルサなど出来るはずもないので、引き続きメンバーを探しながら、たまにスタジオに入って「サンタナ」なんかを練習したりしていた。そんな矢先に英樹のメキシコ留学が決まってしまった。少なくとも、この先1年はバンドは出来ないということだ。そしてその年の6月、英樹はとっととメキシコへと旅立ってしまった。ちょうどその頃、マンハッタンクラブが解散して間もなく、なんのバンド活動もしていなかった僕は、夏休みを利用して2ヶ月ほどロサンゼルスに放浪の旅に出ていた。そして8月の終わりに、英樹のいるメキシコに寄って彼と久しぶりの再会をはたした。そしてその時初めてY氏の事、ペペの事、バンドのメンバーがいなくて困っている事などを聞かされた。そして、日本に帰ったらとにかくY氏に連絡をとって協力してあげて欲しいと頼まれた。
 まもなく日本に帰った僕は早速Y氏に連絡をとった。その時までにY氏はピアノの人とボーカル兼パーカッションの2人を新たに集めていた。しかしベースはまだ見つかっていなかったので、とりあえず自動的に僕がベースをやることに決まった。さらに電話口でY氏は「誰かサルサやりたい人いない?」と聞いてきたので、とりあえずその頃専門学校を卒業して、僕の風呂無し四畳半のアパートに居候していた鈴木義郎をボンゴに推薦した。「じゃあその彼をボンゴにしよう」と会ったこともないのに安易に事は進んでいった。「電話ではなんなんで、とりあえず会いましょう」と言うことで、Y氏とペペ、ピアノのS氏、ボーカルのM氏、それに鈴木義郎と僕の6人で吉祥寺で会うことになった。いよいよ念願のサルサバンド結成へと、期待に胸を膨らませていた僕は、その夜、とんでもない事態に巻き込まれるのであった。 (つづく)

 

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 吉祥寺の丸井の前で待ち合わせをしていたので、僕と義郎は三鷹駅から中央線に乗り吉祥寺の駅に向かった。 駅に着いた時には、待ち合わせ時間を2分ほど過ぎていたので、改札を出ると、ちょっと早足で丸井の方向へと向かって歩き出した。駅から井の頭通りをはさんだ反対側が、待ち合わせ場所の丸井である。横断歩道で信号が青に変わるのを待ちながら何気なく前方を見ると、夕方の買い物客でごった返している雑踏の中に、ひときわ柄の悪い連中がいるのを見つけた。
 買い物客や家族連れ、若いカップルなど、ほとんど全員がそのグループを避けるように歩いていたので、その場所だけ妙に空間が出来て余計に目立っていた。そのなかでもカーリーヘアーの人物(僕にはパンチパーマに見えたけど)を見つけたときは「彼がペペかぁ」と、なんだか感慨深さを感じた。そしてもう一人、明らかに「普通では無い」格好をしていたのがY氏である。一見スーツ姿なのだが、普通の会社員と明らかに違う点があった。ネクタイは締めてなく、スーツの中には赤系のカットシャツを着ていた。そのシャツは襟の大きさが普通のYシャツの2倍くらいあり、しかもその襟だけをスーツの上に思いっきり出していた。つまりニューヨーク・サルサ・スタイルである。
 信号が青に変わるとその集団目指して一直線に歩き出した。こちらはジーンズにT-シャツと言う、ごくありふれた格好をしていたので、僕の方から声をかけるまで、僕らの存在にはまったく気づいていない様子だった。 「あのぉベースの伊藤ですけど、Yさんですか?」と一番背の高い人物に声をかけた。彼は「おお伊藤くんね。よろしくよろしく。」と、なんだか妙に軽い感じであった。
 ひととおり紹介が済んだ頃、Yさんは言った。「とりあえず外で立ち話もなんなんで、どこか店に入りましょうか」 言われるままにYさんについていくと、彼はまるで見えない糸に引っ張られるかのように、一軒の居酒屋へと突入していった。既にボクの頭の中では、黄色の警告灯が点滅を始めていた。Yさんはお構いなしに、店員にむかって次々にオーダーしていた。ボクの目には、注文をしていると言うより、メニューを端から順番に読み上げているようにしか写らなかったが....。
 頭の中の警告灯は赤に変わっていたが、次々と運ばれてくる料理と酒を、食べ盛りの胃袋はありがたく受け入れ始めていた。そもそも金のない貧乏学生にとっては、牛丼に玉子をつけるだけでもご馳走なのに、牛刺しや穴子の天ぷらなどを目の前にしたら、欲望をおさえるすべは無い。さらにボクと義郎以外はみんな社会人、つまり金を持っている訳で、貧乏な僕らはおごってもらう権利がある。と、勝手な理論をうち立てて遠慮なくご馳走になることにした。
 2時間位たつと、みんなご機嫌に出来上がっていて、Yさんが「そろそろ次にいきましょうか!」と言うと、みんな「よっしゃー!」と盛り上がりまくっていた。そして、靴を履いて外に出かかった時、Yさんは「えーと、1人7000円通しね、よろしく」と言ったのであった。その一言でボクの顔から一気に血の気が引いて、酔いがさめたのであった。そもそも誰もおごるなどと言ってないのに、勝手におごられると思いこんでいた自分が悪いのだが、もっと腹が立ったのは、居酒屋で一人7000円
も飲み食いするという、自分たちのバカさ加減に対してだった。そして、さらにこのあと、事態は泥沼の展開へと進んでいくのであった。(つづく)

 

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 すでに財布の中身は千円を切っていたので「あのぉ、金ないんで帰ります。」と言うと、Yさんは「何言ってんの!?これから大切な話しするんじゃない。ダメダメ帰っちゃ!次の店はオレがおごるから、とにかく行くよ!」とテンション上がりまくっている。僕は、先程の割り勘ですっかり酔いが冷めていたが「おごり」と言う言葉を聞いて急に目の前が明るくなった。「一軒目の分を取り戻してやる」という妙な使命感にかられ、再び宴会モードにスイッチが入った。「イェーイ。行きましょう!」と足取りも軽く、Yさんに導かれるまま、なぜか電車に乗って下北沢まで足を伸ばしていた。
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 夜10時過ぎにYさんの行きつけの店に到着。それから閉店の午前2時まで、とにかく自分の持てる全ての力を出して食いまくり飲みまくった。後にも先にも、あれほど一晩に飲み食いした事は無いと思う。そして閉店になりみんな店を出ると「それじゃまた!」と言って次々とタクシーに乗って消えていった。そう言えばここは下北沢。すでに電車も無し......。二人合わせても900円しか所持金のない僕とヨシローは、とりあえず缶コーヒーを買い始発まで駅のシャッターの前で待つことにした。
 すっかり酔っぱらっていつの間にか寝こけていたが、駅のシャターが開く不快な音で目を覚まし、もうろうとしたまま家路へと向かった。どうやって家に戻ったのかはまったく覚えていないが、 気が付いた時には布団の上だった。あたりはすっかり暗く、時計の針は夜の7時をまわっていた。どうやら13時間ほど寝ていたらしい。まだ頭はグラグラしていたが、とりあえずヨシローを起こして銭湯に行くことにした。
 銭湯の湯船につかりながら、ぼんやりと昨晩の出来事を思い返していた。しかしどんなに思いだそうとしても、肝心のバンドの話しの内容が思い出せない。記憶力にすっかり自信を無くした僕は、となりでボケーッと風呂につかるヨシローに訪ねてみた。「結局バンドの話はどーなったんだっけ?」するとヨシローは吐き捨てるように一言「バンドの話しなんか何にもしてねーよ。馬鹿騒ぎしただけじゃん。」と言った。そう言えば、くだらない話しばかりで、肝心のバンドの話しなんか全然してなかったのだ。 恐るべし会社員たちである。
 僕は返す言葉もなく、ただ「ハーァ」とため息をつくと後は無言で銭湯を後にしたのであった。(つづく)